IE9ピン留め
結論から言うと、僕は進路を変えた。
自分を正当化して言うなら、考え方が一周して戻った。
ブログを書き始めたころの大学3年の春。
いつの間にか映像や文章の道に進むもんだと決め込んでいた。
あれほどほかの人を一辺倒だと批判しながら、自分が一番前のめりになっていた。
ただこの長い寄り道があって、自分が何者か少しわかった気がした。
メディアの世界に片足のつま先だけ入って、自分がそっち側の人ではないと思えた。

今、教師をやろうとしている。
そう思うきっかけは、悩むということ。
メディアでぐいぐい進んでいく人というのは、ある種の過信が強い人だと思う。
もちろんいい意味で、「これは絶対面白い!」とか「間違いない!」と思うことができる。
彼らが悩まない能無しということじゃないけど、自分にはできないことだということ。
つまり、その道に関して負けたと思った。たいして勝負もしてないのに。
まぁ勝負できなかったというほうが正しいでしょう。
とことん自分を信じて突き進むことができなかった。

僕はそこで立ち止まって悩むタイプの人間だった。
情熱に任せて、一人だろうが突き進んでいくタイプではなかった。
そこで自分は凡人だと考え込んでしまっては同じことの繰り返し。
ただそういうタイプだったんだと思うだけにした。
じゃあじっくり立ち止まって悩める、つまり自分に適した職はなんだろう、
という問いになったわけです。
そこで出てきたのが、とうの昔に忘れていた教師という職業。
ふと、急に自分の胸の中からぽっと出てきたこの言葉。
そんなわけで、そんなわけな最近です。

TAKE
大学生活が4年目となり、留学もせずこのキャンプスで過ごしてきた僕は、
生粋の生え抜きのNUFSっ子となりました。
変わりゆく留学の流れや学校の外観を僕は腰を下ろしてゆっくりとみてきた。
いいところも悪いところも見てきたとか言いたいけど、あまりいいとこが見当たらない。
そう、目に付くのは悪いところばかり。今日はそんなお話。

この大学は―結論から言って―とても日本的で内と外のはっきりした閉鎖的な大学だと思う。
名前は「外国語大学」と謳っているけど、中身のソフトは排他的な日本の村人。
このことを言って大学にどうこうしてほしいわけじゃないし、みんなにデモを起こせというものでもない。
ただ、こんな事実があるんじゃないの?っていう僕の視点からの報告なだけです。

例を挙げればキリがない。けど挙げれるだけ挙げる。事実の報告であるからして。
例えば、「学校の制度で」留学をする・した人だけの情報交換パーティ
      教室で自分の知っている学生にしか目を合わせられない職員
      レールに沿った就職活動をすれば補助金がもらえる制度
      その他、対人関係で露骨なまでに排他的な職員たち

新しい制度やグループを作って内だけはしっかり可愛がり、外の者へは情報は一切流さない。
当たり前っちゃ当たり前だけど、それを「私たちは特別なの」と言わんばかりな顔をする。
あ、思い出した。この間キャンパスでスーツを着た就職活動を頑張ってるらしき集まりがいた。
おそらく奴らはシュウカツを頑張ってない。
そいつらはただ学校でスーツを着て真面目そうに話しながらランチを食べて、
これもまた「私たち特別なの」というふうに、自己満足に走っているだけだ。
こっちから見ればオリの中のチンパンジーにしか写らないと言うのに。

と、こういくつもの見えないレールがこの大学にはあり、それに沿わない学生は変な目で見られる。
というがっちりとした体系が出来上がってしまっています。
この集団意識は慣れ合いや自己満足を生み出して、向上心を失う。
ぬるい湯につかるように気付かないうちにジワジワと。
そうならないためには、意識をはっきり持って軸をぶらさず、自分を信じるのみ。
答えは結局シンプルなんです。それを理解できるかどうかですがね。

TAKE
お久しぶりです。
特に書きたいこともいいたいこともまとまらないのだけど、
さすがに放置プレイにもほどがあるし、書いてりゃそのうち出てくるでしょってノリで書いてます。

さてさて、今僕は実家の生活に戻ったのですが、
バイク通学のため雨の日は自主休講となります。
バイクで道路を走っていると当たり前だけど車を何台も見るわけです。
それでさらに当たり前なのが、彼らはみんな免許を取って車を運転しています。
その彼らの運転に最近疑問を持ち始めましたよ。
ここでいう運転は技術じゃなくて意識の話です。

結論から先に言うと、想像力がない。ということです。
以前から多分何回か書いてきたと思うんですが、相手の気持ちになれる力がなさ過ぎる。
車線変更にしても減速にしても、何のためにウインカーやテールランプが付いてるのか、
これがイマイチわかってないんじゃないかと。

今書いてて思った。
言いたいことがないわけじゃない。
それが言える立場じゃないとか、そんなことを言い出したらきりがないのは承知。
そうじゃなくて、言う気がなくなってきてるのかもしれない。
今書いたのにしても、ここに書くことで現状がなおるとは期待してない。

今日は運転の話を持ち出したけど、思ってることは一緒。想像力の欠如。
考えることがめんどくさいことになってる世の中だからこそ。
考えて考えて考え抜いた先に何もなくても考える。
一度出た答えを別の角度から疑って、さらにそれをまた疑う。
こう書けば書くほどめんどくさそうなことだけど、それ以外に成長の道はないと思うわけです。

TAKE
またまた感情を揺さぶられるような数日間が身の回りに起き、
つくづく、自分はいい人生を送ってるなと感じる日々です。
その中で最近、少し答えのようなものが出てきました。
それは、「思いやり」
人に関わるすべてのことは思いやりだと感じます。
相手の気持ちになって考える。
簡単だけど、ふとした時にはもう自分のことを考えてしまっている。

自分がネガティブだと気付ける人は、きっとポジティブなんです。
自分はポジティブだから、と言える人はそれはただのノーテンキ。
物事を悪い方にも考えれるからこそ、いいことが起きた時に喜べる。
空腹を知ってるから、腹いっぱい食べる喜びも知っている。
一本の道しか考えることのできない人は、相手の苦しみを理解することができない。

ネガティブの中にしか、ポジティブは存在しない。
Mの中にしか、どSは存在しない。
それにも関わらず、自分はSとかポジティブとか言える人は、KYかノーテンキかただのバカ。

浅はかにしか考えない人は、一生幸せに暮らせるでしょう。
ただその幸せはきっと独りよがりの物なんだと思う。
そんな幸せは他人が見ても全く羨ましくないもの。
そして、深く考え込む人は、苦しむ。
でも、苦しんだ分だけ、幸せをかみしめることができる。
そうやって行き着いた幸せには、人が集まって、見る人たちをも幸せにする。

TAKE
時代は変わる。自分も変わるし、まわりも変わる。
何度も同じことを言うけど、友達は変わってくる。
「そんなのやだ」ってピーターパンかシンデレラみたいなこと言えば言うほど結果は悲惨。
好きな人を自分の近くに置いておきたいなら、自分が変わるしかない。
スターがスランプに陥る時ってのは、その座を保とうとしたときなんです。
やっぱり常に上を、そじゃなきゃ自分のまわりにはヘラヘラ笑う愉快な仲間たち。

まわりが変わってくってのは、自分が抜け出す場合と自分が置いてかれる場合の二つ。
明らかに後者はみじめでしょう。抜け出した側はきっと前いた場所に飽きたから。
飽きる理由はほかに面白い仲間を見つけたか、ただ単にそこがつまらないと気付いたか。

それは飽きさせたその場に負い目がある。
一番幸せなケースは、時間が経って、どっちかがどっちかに追いついて、
全く今までとは別の、新しい場所で再会すること。
その時はお互い、いろいろわかってるんです。
まぁ、ずっと切磋琢磨し続けて、気付けばあら、ずっと一緒ってのもあるけどね。

今日は長ったらしく書くのはやめよう。
人は3日あれば変わる。

TAKE